令和4年度春季大会 プログラム・要旨集

会場(京都精華大学)・オンライン(Zoom)併用開催(令和4年5月22日終了しました。)

 非会員の方へ  

 このたびの大会では、非会員の方の参加を受け付けておりません。
 新型コロナウイルス感染症予防のため、今回は参加者を会員のみに制限させていただくこととなりました。ご了承くださいますようお願い申し上げます。たっての参加ご希望の場合は、恐れ入りますが、日本歌謡学会事務局までお申し出下さい。

 (会員の方)会場での新型コロナウイルス感染症予防について  

  • 受付にて赤外線体温計で検温させていただきます。また、手指消毒の上、入室してください。
  • 会場では間隔を取っての着席をお願いいたします。また、会場内では、マスクあるいはフェイスシールドの着用をお願いいたします。

 (会員の方)リモート参加をご希望の方へ 

 本大会はZoomにてリモート参加が出来るように準備を進めております。リモート参加ご希望の方は、案内状同封の返信用葉書にその旨、およびEメールアドレスをご記入ください。リモート参加の方法等につきましては、ご希望の方に、順次Eメールにてご連絡いたします。

ご案内

 令和4年度春季大会を5月21日(土)・5月22日(日)の二日間、京都精華大学とオンライン併用で開催いたします。学会員だけの参加になりますが、ふるってご参加ください。

令和4年度春季大会のポスターは下記のリンクまたはQRコードからダウロードできます。ご活用ください。

ポスターA1サイズ       ポスターA4サイズ

【第1日】 5月21日(土)

開会の辞                          日本歌謡学会会長 米山 敬子

会場校挨拶                         京都精華大学学長 澤田 昌人

講演会

  • 講演会 13:15~16:00 明窓館4階ラーニングコモンズ
     
    • 第一講 国風歌謡「東歌」の創出ーモデル理論の射程ー   共立女子大学 遠藤 耕太郎
    • 第二講 「今」の心を歌い伝える歌謡ー東日本大震災を体験して生まれた心を伝える「釡石あの日あの時甚句」ー         岩手大学平泉文化研究センター客員准教授 田中 成行

志田延義賞授賞式

  • 受賞者「歌謡を書く」 藤原 彰子 

【第2日】 5月22日(日)

研究発表会シンポジウム総会

  • 研究発表 10:00~12:10 明窓館4階ラーニングコモンズ
    • 平澤丁東『台湾の歌謡と名著物語』所収歌の日本語訳について
        智辯学園奈良カレッジ講師 下仲 一功
    • 内侍所臨時御神楽の恒例化と御所作
        新潟大学 中本 真人
  • 昼食・休憩
  • シンポジウム(テーマ「歌謡のアナキズム」) 13:10~15:30
    • ラップと黒人ディアスポラ 
        京都精華大学  安田 昌弘
    • 公共財としてのうた―栄光と凄惨、衰退と褒賞、未来への一筋の光明― 
        京都先端科学大学 手塚 恵子
    • 歌謡の自律性ーウタの「反国家性」「反権威性」の在処ー
        獨協大学名誉教授  飯島 一彦
    • 司会 京都精華大学 末次 智
  • 総会
  • 閉会の辞                          清泉女子大学 姫野 敦子

 

講演会要旨集(第1日)

講演1 国風歌謡東歌の創出 ―モデル理論の射程 ―

共立女子大学 遠藤 耕太郎

 本発表では東歌を、「在地歌謡」を献上することによって大和王権への服従を表明するという中華思想の体現されたものであると捉え、そのような国風歌謡東歌がどのように創出されるのかをモデル理論に依拠しながらイメージする。この場合の東歌とは、『万葉集』巻十四のそれ、『古今和歌集』大歌所御歌のそれ、さらにこれらとかかわる「東遊」の歌詞や「風俗歌」の、原型的な概念であり、『続日本紀』天平宝字七年正月条の「東国楽」などを指している。

 まず、唐帝国に冊封された南詔国が「夷中歌曲」を献上した記事(『新唐書』礼楽志)をモデルとして、国風歌謡東歌は在地歌謡を知る在地官人、都からの赴任官人、さらには都の歌人、こういう人たちが徹底的に改変して創出したもので、東国に根生いの歌謡そのものではなく、在地(東国)には根づくはずもない歌謡であったと述べる。

 次に、具体的にどのような改変が施されたのかイメージする。東歌の特徴の一つに、季節ごとの労働過程と愛情表現を重ねるという発想法があるが、同じ発想法が中国雲南省に暮らす少数民族リス族の歌垣における掛け合い歌にも見られる。歌垣での歌掛けは数時間続き、一首で完結するものではない。そこで、こうした歌掛けを素材としながら、一首の完結した歌を作ってみると、序歌や比・興 の修辞を知っている者なら、何の苦も無く一首の序歌を作ることができ、その序には労働に密着した生活の一端が表現されることがわかる。

 この作業をモデルとして見ると、在地官人や赴任官人らが、東国の歌垣で行われていた歌掛け歌を素材としつつ、それを序歌や比・興といった修辞によって一首完結した歌にまとめ、序(労働過程)に東国らしさを残す国風歌謡東歌を創出したさまが見えてくる。

 こうした考察を進めながら、最後に、日本古代歌謡研究におけるモデル理論の可能性を探ってみたい。

講演2 「今」の心を歌い伝える歌謡
              ー東日本大震災を体験して生まれた心を伝える「釜石あの日あの時甚句」ー

岩手大学平泉文化研究センター客員准教授 田中 成行

 東日本大震災から一一年を経て、その尊い犠牲と教訓が忘れられようとする今、伝えずにはいられない大切な心を、新作の甚句に結晶化して歌い伝え続けておられる方々と、それを自分ごととして共感し感動して共に伝え続けようとする方々がいます。それが「釜石あの日あの時甚句」であり、この甚句がどのようにして生まれ歌い続けられているかを、釜石という地域性や歌う方々お一人お一人の事情等の背景を紹介しつつ、「今」を生きる人の心を表現し伝え続ける歌謡としての甚句の魅力を共に実感し合いたい。

研究発表会・シンポジウム 要旨集(第2日)

午前の部 「研究発表会」

平澤丁東『台湾の歌謡と名著物語』所収歌の日本語訳について

智辯学園奈良カレッジ講師 下仲 一功

 『台湾の歌謡と名著物語』は大正六年(一九一七年)、平澤平七(筆名平澤丁東)によって台北・晃文館から刊行された。同書は現在、国立台湾文学館に所蔵されている龍瑛宗氏旧蔵本が台湾政府の重要古物に指定されている。指定理由については、「台湾日治時期第一本集成書的歌謡紀録」、つまり台湾で歌われていた歌謡を一本にまとめた最初の書物である、ということが評価されているのである。確かに、台湾の歌謡については、同書の第一部に平澤がまとめたもの以前は、見聞きした歌を断片的に雑誌等に掲載したようなものはあっても、広く集めて、それを列挙していったようなものは、台湾の人々が編んだものも含めて存在していなかった。

 この本を繙くとき、私達は、平澤が極めて特色のある日本語訳を台湾歌謡に対して行っていたことに気付かされる。周作人は早く一九二〇年に次のように述べている。「日本の平沢平七(H.Hirasawa)の『台湾の歌謡』の訳文を見るに、多くが原文よりも明瞭優美である。これは翻訳界において滅多にない事であるが、しかしながら実在する事である。」(『談龍集』、中島長文氏の訳)平澤は台湾の歌謡を列挙するにあたってそれを「俗謡」と「童謡」に分け、それぞれ簡単な考察と台湾語による歌詞(漢字表記)に、発音(片仮名で歌詞に振り仮名)と日本語訳を付けた。「俗謡」の日本語訳を見ると、音数的に近世小歌調のリズムを基層にした翻訳に仕上げようとしたことは明らかで、語彙の面や言葉遣いからも、おそらく台湾の俗謡を日本の俗曲・俗謡調に翻訳しようという意識が優先的に働いていたものと思われる。その結果、平澤訳は厳密な逐語的翻訳ではなくなっていることも確かであるが、歌謡を歌謡的に翻訳することには、ほぼ成功したように思われる。現代的視点から見ると批判や問題点を含むものではあるが、当時の歌謡研究の状況や平澤が同書で目指したものを考える時、同書の評価を、歌謡を集成的に集めた、というだけでなく、当時の創造的なというと語弊があるかも知れないがそのような性質を持つ翻訳の一成果であるととらえることも出来るのではないかと考えられる。

内侍所臨時御神楽の恒例化と御所作

新潟大学 中本 真人

 『建武年中行事』「内侍所の御神楽」には、内侍所御神楽の次第とともに、恒例化された臨時御神楽についても詳述されている。同書によると、臨時御神楽は秋季に開催され、公卿所作であったとされる。また笛の御所作が行われる場合もあり、その作法についても具体的に説明されている。

 内侍所臨時御神楽は、伏見天皇の永仁期ごろに勅願によって開始されたとされる。しかしすでに後宇多天皇のころより『建武年中行事』にみられるような御神楽が行われていることから、実際は両統迭立期を通して形成されていったと考えるべきであろう。この時期の天皇は、内侍所行幸を重ねており、折々の祈願とその報賽のために臨時御神楽も実施されたらしい。そのため毎年開催されたわけではなく、また開催月も秋季に固定していなかった。

 後醍醐天皇は、元亨元年(一三二一)の内侍所臨時御神楽で笛の御所作を行った。さらに嘉暦二年(一三二七)と建武三年(一三三六)には本拍子をとっている。もし後醍醐天皇が、早期より拍子の御所作を庶幾していれば、『建武年中行事』にも拍子の御所作に触れたはずである。同書に拍子の御所作の記述がないことは、同書執筆の段階では、まだ後醍醐天皇が御神楽の拍子を想定していなかったことを示していよう。同書執筆の時期は、最初の本拍子の御所作を行った嘉暦二年ごろと推定されている。おそらくこの本拍子の御所作は『建武年中行事』執筆後、それほど間を置かない時期に立案されて、ただちに実行に移されたのではないだろうか。

 南北朝時代に入ると、北朝は内侍所臨時御神楽を恒例御神楽と一晩で行うようになった。結果的にこの形式が定着して、臨時御神楽も一座に統合されることなく継続することになったのである。

 このように内侍所臨時御神楽は、後醍醐天皇の代とそれ以降も変化を重ねた。『建武年中行事』は固定化した行事を記したのではなく、変化を続ける行事の過渡期を記したものといえる。

午後の部 「シンポジウム ・ 歌謡のアナキズム」

ラップと黒人ディアスポラ

京都精華大学 安田 昌弘

 イギリスの民俗音楽学者デヴィッド・ハーカーは、1985年に出版した『Fakesong: The Manufacture of British Folksong 1700 to the Present Day』(Open UP: Milton Keynes)という本のなかで、民謡保存会で歌われたり、学校で教えられたりするフォークソング(民謡)は、それがどのような力関係によって媒介され現在まで途絶えずに歌い続けられているかの分析を欠いている限り、フォークではなくフェークソング(ニセ民謡)だと指摘した。民謡保存会という言葉が示すとおり、我々はともすると、蝶の標本のように民謡を《完全な形》で採取し、特定の節回しや振り付けを《正統》として固定してしまう。しかし民謡(民衆のうた)が秘めている力は、それが固定されておらず、常に変わることができることのなかにあるのではないか。

 その最近の例として、1914年に作曲されたウクライナの軍隊行進曲「Oh, the Red Viburnum in the Meadow(ああ、草原の赤きガマズミよ)」が挙げられる。ウクライナのロックグループのボーカリストがキーフで歌ったこのうたの動画が世界中に広まり、ロシアの行動に反対する多くのアーティストによって、様々に「変奏」され話題となっているのだ。仕事柄いろいろな国歌や軍歌の替え歌や変奏曲を聞くことが多いが、一〇〇年以上前のうたが、ドラムマシンやシンセサイザーなどの電子楽器を使って変奏されてもイロニー的嘲笑に陥らず、自由のために祖国を守るというメッセージを伝え得ていることは驚きに値する。「君が代」の演奏にギターやドラムスが入ったらたちまちイロニーになってしまうだろう。それは国家権力による統制であり、民謡とは話が違う、と言うかもしれない。しかしそれは知的権力を振りかざして人々のうたを保存=固定してしまうこととどれくらい違うのだろうか?

 本報告では、ラップという、一般的にアメリカの大都市の貧民地区の疎外された黒人たちが生み出したとされる文化――あるいは歌謡様式――に注目し、「うたう/音楽する」という活動を、特定の時代や場所、様式や正統性にピンダウンして論じることの暴力性について、それがうたを分析可能とする一方でその力を削いでしまうことについて、一緒に考えてみたい。

公共財としてのうた栄光と凄惨、衰退と褒章、未来への一筋の光明

京都先端科学大学 手塚 恵子

 壮族(中華人民共和国広西壮族自治区)の社会ではうたは公共の財でした。清代まで広西は漢族の支配下にありましたが、行政の機構と徴税の仕組み以外の多くの事柄は在地に委ねられていました。そのような状況下にあって、修辞の優劣、伝統的な知識、現前の問題に至るまで、多くの事柄がうたを通じて合意が諮られてきました。それを支えてきたのは、この地域のうたが、①歌の形(固有の旋律でうたう定型詩)を共有し、②相互唱(うたいかけられたうたはうたい返す)であることでした。

 壮族のうたは漢族の文人から「まことのうた」として称賛され、官僚からは「人々を惑わすもの」として規制の対象とされました。中華民国期には民主主義や共産主義といった新しい思想を広める役割も担いました。中華人民共和国成立後は共産党の考え方を在地に理解させるための手段として活用され、文化大革命期には厳しい弾圧の対象になりました。その後は民族の象徴として持ち上げられ、現在では壮族の第一の文化資産として認定されるに至りました。

 私は広西のうたの在り方を、民国期から 80 年代初期までについては聞き書きとして、それ以降は参与観察を通じて、記述してきました。この間、壮族のうたは、外部評価にさらさ れて、変容せざるを得ませんでした。現在の中国で高い評価を受けている壮族のうた、伝承されてきたうた、文辞の整ったうたを、在地のうた好きの人々は、必ずしも肯定的に捉えて いません。うたはうたいかけられたらうたいかえすもの。コミュニケーションのかたちであって、民間文学でも文化財でもない、ドキドキハラハラする、みんなのなにかです。

 壮族のうたが経てきた歴史を振り返りながら、うたの公共性について考えたいと思います。

歌謡の自律性ーウタの「反国家性」「反権威性」の在処

獨協大学名誉教授 飯島 一彦

 アナキズムの語源はギリシア語で「無支配」の意であるという。日本では無政府主義と訳される。しかし、政治史では、淵源は古く、歴史は長く、近代に至って様々な思想に分化した有様が述べられてなかなか捉えどころがない。ただ、国家組織とそれによる強制性への忌避・棄却、自由な社会への希求、そして道徳的な自律を根本に考えることは共通しているようである。では、歌謡にとってアナキズムとは何か。それは単なる比喩なのか。それともウタの世界にもしくはウタの本性としてアナキズムは存在しうるのか。

 たとえば神楽歌とか、『おもろさうし』等の歌謡は、大和朝廷・琉球王朝の国家のありようと不可分(いわゆる宮廷歌謡として)に存在していた。そこには一見アナキズムは存在し得ない。「童謡(わざうた)」でさえ、正史に記載された段階ですでに国家の論理に絡め取られている。しかし、その表現からは国家に取り込まれる以前の姿が求められ、研究の成果として提示されている。そこでは国家の規制とは無関係に表現が成立している。国家の表現と、歌謡の表現とではずれが生じる、と言っても良いのかもしれない。それは『平家物語』の祇王が語る「あそびものの推参」のように、能「自然居士」の人買いの「大法」のように、「ものくさ太郎」の辻取りのように、国家や権威が保持する「法」とは別に、地域や同業・同族等の狭い集団で通用する別の価値観が古くから自律的に働いていたことを示している。それらは、国家や権威が持つものとは別の価値観に基づく自律性である。同様に、歌謡はそれを担うある特定の集団の中で根本的な自律性を持つと思われる。それが歌謡のアナキズムの源泉であろう。しかし、歌謡には国家や権威に依存して生き抜いていくという自律性も持っている。その点では反アナキズム性(国家や権威への寄生性)も持っていると言わなくてはならない。本発表では、いくつかの観点から歌謡の自律性の具体例を見て考える。

お問い合わせ先

・学会事務局 関西外国語大学 米山敬子研究室内 
   〒573-1008 大阪府枚方市御殿山南町六 / E-mail:takako-y*kansaigaidai.ac.jp

・会場校担当  京都精華大学 国際文化学部 末次智
   〒606-8588 京都市左京区岩倉木野町一三七 / E-mail:suetsugu*kyoto-seika.ac.jp

(E-mailは「*」を「@」に変えて発信してください)
                               

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