期日 | 令和5年 5月20日(土) |
会場 | 清泉女子大学(Zoom併用) |
研究発表会
13:15~15:30 1号館4階 143教室
●開会の辞 日本歌謡学会会長 姫野敦子
- 来目歌」と舞の関係について――「手量」に注目して――
立命館大学大学院博士後期課程 砂田和輝 - 隆達節歌謡資料二種について
清泉女子大学 姫野敦子 - 天和二年版『ことのくみ』と八ツ橋十三組の成立について
獨協大学名誉教授 飯島一彦
●閉会の辞 獨協大学名誉教授 飯島一彦
※研究発表会参加ご希望の方は、5月10日(水)必着で、出欠確認ハガキをお出しください、または下記のリンクからgoogleform(グーグルフォーム、出欠の返事が書き込めるインターネットのページ)につながりますので、そちらで出欠の入力をお願いいたします(こちらは5月13日(土)までにお願い致します)。どちらか一方のお返事でお願いいたします。
Googleform https://forms.gle/4u5rvL7DsF3Sp97i6
※Zoom参加の方にはPDFファイルを電子メールでお送り致しますが、印刷された研究発表資料をご希望の方は、出欠確認ハガキ、もしくはgoogleformにご記入ください。開催三日前ぐらいに郵送いたします。会場参加の方は、会場にご用意いたします。
※清泉女子大学へのアクセスは、大学HP(https://www.seisen-u.ac.jp/access/)をご覧下さい。
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〒141-8642 東京都品川区東五反田3-16-21
清泉女子大学 姫野敦子研究室内
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(事務局への連絡には電子メールをお使いください。お願い申し上げます。)
研究発表要旨
1.「来目歌」と舞の関係について――「手量」に注目して――
立命館大学大学院博士後期課程 砂田和輝
『古事記』・『日本書紀』(以下『記』・『紀』)所載のいわゆる久米歌と、後世の儀式書等に記される久米舞とはしばしば関連付けて論じられるが、歌と舞がいつから結びついていたのかについてはいまだ疑問が残されている。『続日本紀』、『貞観儀式』にある久米舞の記事には歌に関する記述はなく、久米舞に歌がともなったことが確認されるのは『北山抄』まで時代が下る。『日本書紀』の「来目歌」前後の記述からは「舞」・「儛」の語は確認できない。ただ、「来目歌」の注記にある「手量」の語を舞の動作と指摘する先行学説があり、このことが「来目歌」に舞の動作があったことを示す唯一の手がかりとなっている。
本発表では、「手量」の語が舞の動作に関する注記であるかどうかを検討する。「手量」の解釈については、舞の動作、手拍子、尺度、斧や剣の主に四つに説が分かれており、未だ定説を得ない。斧や剣については、「量」の字を用いて武器を示す同時代の用例がみられず認めがたい。尺度については、『古語拾遺』や『出雲国風土記』にみられる「天御量」のような宮殿建築の尺度とは『日本書紀』の文脈上認めがたいが、大小の程度を示すという意味では『日本書紀』の「量」の用法と合致する。問題は「量」が何の程度であるかだが、手拍子については、『日本書紀』や後世の儀式次第などでも手を打つことを「拍手」、「撃手」と表記しており「量」の字を用いることはないことが確認される。以上より、舞の動作の程度を示すと考えるのが妥当であろう。
『古事記』の序文には神武天皇条の東征について触れたとみられる箇所で「列儛攘賊」と記述される。また「職員令」では久米舞の所作について蜘蛛を切る動作とするが、これは『記』・『紀』の神武東征条にみられる土蜘蛛の討伐に重なる。これらのことから、『記』・『紀』編纂時には久米歌と久米舞はともにあり、『日本書紀』の「来目歌」にも舞がともなっていたと考えられるということを論じる。
2.隆達節歌謡資料二種について
清泉女子大学 姫野敦子
本発表では、架蔵の隆達節歌謡資料二種について報告する。一つめは、二〇二一年に入手した軸で、小野恭靖著『「隆達節歌謡」全歌集(本文並びに諸本索引)』の番号でいうところの二八九番「定家葛に這ひ纏はれて、離れ難なの今朝の別れは」が書かれた短冊が貼り込まれたものである。この資料については、すでに、小野氏の「隆達と堺文化圏―早歌・茶の湯・連歌、そして三好一族―」(『日本歌謡研究』六一号)の追記で紹介されているが、現物を展示した上で、隆達の短冊について考察したい。
また、二つめは、二〇二二年に入手した軸で、隆達像の上方に『全歌集』の二六五番「月隠す山また雪に埋もれて、何の上にも報いあるもの」が書かれたものである。この二六五番の隆達節歌謡は『歌舞音曲』第一号(一九〇七年)の口絵に載せられた扇面(『「隆達節歌謡」全歌集』の資料記号での○g)の歌謡と一致しており、隆達像は扇面のものと酷似している。また、朱で墨譜も書かれているが、かなり薄くなっている。これも現物を展示して、資料的価値について考察したい。
3.天和二年版『ことのくみ』と八ツ橋十三組の成立について
獨協大学名誉教授 飯島一彦
『ことのくみ』については『日本古典音楽文献解題』において谷垣内和子によって、「天和二年壬戌初秋日/小刀屋六兵衛」の刊記を持ち、
八橋検校作曲の組歌一三曲の詞章を収録。特に「ふきくみ」第四歌までには歌詞の右側に演
奏法の注記が施されており、この種の記譜を有するものとしては最古の組歌本である。
と紹介されながらも、続いて
但し、現時点では天和本の所在は明らかでなく、文政本の伝存が知られる。
として、天和二年(一六八二)版の存在に疑義が残されていた。
ところが、平成二十九年に 「天和二年壬戌初秋日/梅むら板行」の刊記を持つ一本を入手したので、現存が知られる天和二年の刊記を持つ『ことのくみ』四本のうち上野学園日本音楽史研究所蔵の三本と比較し(残りの一本は披見が不可)た結果、架蔵本が天和二年版の元版またはそれに近い版によって刷られた物と判明した。さらに架蔵本には谷垣内の紹介にある「演奏法の注記」は存在せず、天和二年版『ことのくみ』は覆刻によって内容が成長した書であることが明確になった。「梅むら」はおそらく「京寺町五条はし詰め」の書肆「梅村弥へもん」(『峯のまつ風』(元禄八年(一六九五)刊)の刊記)であろう。同書肆は八ツ橋十三組を語るときに必ず引用される『琴曲鈔』(元禄八年刊)の版元でもある。つまり、『ことのくみ』の出版を踏まえて、『峯のまつ風』と『琴曲鈔』が発刊されたことになる。その事実からはいわゆる八ツ橋十三組の完成・成立が遅くとも天和二年迄遡ることが確実になる。さらに『糸竹初心集』等の記述から、短く見積もって寛文四年(一六六四)から延宝三年(一六七五)の足掛け十二年、長く見積もっても天和二年までの一九年間の内に置いて考えられることになる。それは実に八橋検校在世中(一六一四~一六八五 )の意外に早い時期に関わる可能性を持っているのである。本発表ではそれが箏組歌の歴史の中でどのような意味を持つことになるか、平野健次の先考に多くを拠りつつ論じることになる。