オンライン開催
ご案内
令和3年度春季大会は、昨年の春季大会で中止になっておりました、シンポジウム「一条兼良『梁塵愚案抄』と室町文化」をオンライン開催いたします。
例年とは異なり、一日だけの開催となりますが、どうぞふるってご参加くださいますよう、お願いいたします。
5月23日(日)
●開会の辞 日本歌謡学会会長 米山 敬子
シンポジウム:一条兼良『梁塵愚案抄』と室町文化 13:00~16:00
- 趣意説明・司会 共立女子短期大学名誉教授 菅野 扶美
- 基調講演 一条兼良『梁塵愚案抄』の性格、及び連歌における神楽
青山学院大学名誉教授 廣木 一人 - パネル発表① 一条兼良『梁塵愚案抄』の諸本をめぐって 京都芸術大学 田林 千尋
- パネル発表② 『梁塵愚案抄』の時代の内侍所御神楽 新潟大学 中本 真人
- オンラインによるディスカッション
志田延義賞授賞式 16:00~16:30
- 受賞者 遠藤耕太郎氏『万葉集の起源 東アジアに息づく抒情の系譜』
●閉会の辞 清泉女子大学 姫野 敦子
令和3年度日本歌謡学会春季大会 公開シンポジウム要旨集
シンポジウム・一条兼良『梁塵愚案抄』と室町文化
開催趣意
共立女子短期大学名誉教授 菅野 扶美
日本歌謡の研究史を概観すると、室町時代の宮廷芸能を主たる研究対象として扱ってこなかったように思われる。この時代の芸能は、特に能楽を中心に論じられており、大きく衰退したとされる朝廷の諸芸能は、研究すべき対象とみなされてこなかったのである。
しかしながら、近年の中世和歌研究などが明らかにしているように、公家社会は武家勢力を積極的に取り込むことによって、絶えず朝儀復興と王朝文化の再生に取り組んでいた。さらに戦乱や経済的困窮の中にあっても、天皇・院を中心とする公家社会が、朝儀復興に意欲を失ったことはなかった。なぜ長い困窮の時代にあっても朝廷は、朝儀復興への意欲を捨てなかったのか。なぜ新たな学問や文芸の華が開いたのか。室町時代は、古記録が多く残されているにもかかわらず、その具体的な事情は、充分に明らかになっていない。
室町時代に、歌謡研究の先鞭をつけたのは一条兼良の『梁塵愚案抄』である。今回のシンポジウムでは、連歌研究の立場から廣木一人氏の基調講演、および歌謡研究の若手研究者の報告によって、室町文化における一条兼良の位置、御神楽と楽家との関係、さらには『梁塵愚案抄』諸本などの視点から、兼良が文芸や歌謡研究に与えた影響を再検討する。
本シンポジウムを通して、日本歌謡研究の足元を見直すとともに、歌謡・芸能研究と隣接諸学との連携の可能性も探りたい。
【基調講演】一条兼良『梁塵愚案抄』の性格、及び連歌における神楽
青山学院大学名誉教授 廣木 一人
連歌において神楽はよく取り上げられる題材であった。連歌最盛期の碩学、一条兼良は、宗祇との密接な関係、多くの連歌会への参加、『菟玖波集』を継ぐ連歌句集『新玉集』編纂の企て、いくつもの連歌学書の著述など、連歌に多大な関心をもっていた。一方で、内侍所神楽・催馬楽の注釈書『梁塵愚案抄』を講述した。であれば、この注釈は兼良の連歌における神楽観に何かしらの影響を与えたとも考え得るがそうであろうか。
兼良には連歌で用いる語句を一覧した寄合書、『連珠合璧集』がある。ここには「神楽トアラバ」の項目での他、多くの項で神楽に関わる語が採択されている。これを見ると、里神楽に関わるものも多いなど、『梁塵愚案抄』からの直接の影響というものは確認できない。『連珠合璧集』は連歌の中で醸成されてきた神楽観を基盤にしており、それを逸脱するものではないのである。そもそも、多くの連歌作者にとって内侍所神楽は実体験不能なものであり、『連珠合璧集』のありようは必然であったのであろう。
このような中で、一つだけ注目に値するものがある。それは和歌・連歌における神楽が霜月、十一月の神事であるという認識に関わってのことである。『連珠合璧集』はこの一点で連歌での伝統を無視しているのである。神楽の寄合語に「霜月」も「霜」も採用していない。内侍所神楽は原則的には十二月のものであり、綾小路有俊に関わり、『梁塵愚案抄』を書いた者として、ここは譲れなかったのかも知れない。
以上のように、『梁塵愚案抄』は連歌に影響を与えたとは言えないのであるが、この書が和歌・連歌関係者に相伝されていることは注目に値する。『梁塵愚案抄』は兼良の有職故実への関心から書かれた面が強いが、歌人・連歌師にとってもそうであったのか。『梁塵愚案抄』は後代の文芸にとってどのような意味を持つのか、今後精査の必要があろう。
【パネル発表①】一条兼良『梁塵愚案抄』の諸本をめぐって
京都芸術大学 田林 千尋
一条兼良が著わした『梁塵愚案抄』は、神楽歌・催馬楽を対象とした最古の注釈書である。奥書によって、康正元年(一四五五)以前に成ったものを綾小路有俊の命で中院通秀が清書し、以後文明九年(一四七七)まで著者によって筆削が加えられたことが確認される。本書上巻は別名を『神楽注秘抄』、下巻は『催馬楽注秘抄』といい、それぞれ、平安期の神楽歌と催馬楽の詞章を網羅的に集めて注釈を付したものである。本書は近世の国学に大きな影響を与えたばかりでなく、現在に至るまで神楽歌・催馬楽研究の礎にある重要資料である。
しかし、『梁塵愚案抄』(『神楽注秘抄』、『催馬楽注秘抄』)そのものに関しては、未だ諸本の整理もなされておらず、十分に研究が進んでいるとは言いがたい。現在、『梁塵愚案抄』の通行本としては、高野辰之編『日本歌謡集成』第二巻や『続群書類従』第十九輯上 管弦部等の翻刻等が挙げられる。寛文八年(一六六八)刊・元禄二年刊(一六八九)の両版本等も比較的手に取りやすい資料だろう。だが、前述のとおり、『梁塵愚案抄』は、『神楽注秘抄』、『催馬楽注秘抄』として初稿本が成立したのちも、兼良によって筆削が加えられている。『国書総目録』によると、『梁塵愚案抄』の写本は六十二本、『神楽注秘抄』、『催馬楽注秘抄』の写本はそれぞれ十九本が確認されている。この中にあって、通行本の本文は、かならずしも他本に比べて善本であるとはいえない。神楽歌・催馬楽研究の伸展のためにも、『梁塵愚案抄』(『神楽注秘抄』、『催馬楽注秘抄』)諸本の精査と、研究の底本となる最善本の選定が希求される次第である。
『梁塵愚案抄』(『神楽注秘抄』、『催馬楽注秘抄』)の重要資料としては、武井和人先生ご架蔵の一条兼良筆『催馬楽註秘抄』切、また、尊経閣文庫蔵中院通秀筆『催馬楽秘註』等が挙げられる。このたび、武井先生のご高配を賜り、一条兼良筆『催馬楽註秘抄』切と斑山文庫旧蔵『梁塵愚案抄』を、カラー画像を交えてご紹介させていただくはこびとなった。一条兼良筆『催馬楽註秘抄』切の注釈本文をよりどころとして、本文、書名(内題)、奥書の三点に着目し、『梁塵愚案抄』諸本の整理について提言したい。
【パネル発表②】『梁塵愚案抄』の時代の内侍所御神楽
新潟大学 中本 真人
『梁塵愚案抄』は、歌謡の注釈的研究の嚆矢として知られる。同書上巻に当たる『神楽注秘抄』は、一条兼良が神楽歌に注釈を付したものである。康正元年(一四五五)九月十日の奥書によると、綾小路有俊が中院通秀に清書させてまとめられた。下巻の『催馬楽注秘抄』とともに、近世の国学に大きな影響を与えたことは、広く知られる通りである。そこで本報告では『神楽注秘抄』を考える前提として、室町中期の内侍所御神楽とその周辺環境について考える。
兼良は、後花園天皇の実父である伏見宮貞成親王(後崇光院)に接近し、さらに側近の綾小路有俊とも関係を築いたらしい。一方の有俊は、兼良の権威と学識を利用することにより、火災によって失われた家書の再建を進めつつ、拍子の役を守ろうと試みた。同書書写の時期、応永期の土御門東洞院内裏が焼亡し、伏見殿御所が長期に渡って使用されていた。その一方で伏見殿御所の時期の内侍所御神楽は、諸事情による延引は生じているものの、目立って退転した様子はない。ただし長く神璽が奪われる事態は、『日本書紀纂疏』にみられる兼良の神鏡重視の思想をもたらしたらしい。しかし兼良が内侍所御神楽や神楽歌を重視したような様子はなく、またその継続に対する危機感も抱いていなかったようである。
『神楽注秘抄』に掲載される曲数は、実際の御神楽で奏された曲数よりも相当に多い。兼良は現行の曲ではなく、書物に記載された神楽歌を参照した。多くの声楽の伝承が断絶し、書物に過去の歌詞が残る神楽歌に対して、兼良は歌詞のみに注釈を付した。当時にあっては現実的な歌謡の研究方法であった一方で、発声の高低・強弱・長短や、歌い替えなど歌謡の本来的性格が切り捨てられたことになる。このような『神楽注秘抄』における兼良の方法は、やがて近世の国学に大きな影響を与えるとともに、今日まで続く歌謡研究の方向を示したものと評価できるのではないか。